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脇坂中務少輔、と告げると、近習はあわただしく屋敷に招き入れてくれた。屋敷、というには、やはり、いささかもの寂しい。むかし、小谷に彼が母や妹と住まいしていたころは、こんなものだったか――と、何十年も前の記憶がどこともなしにわき上がった。
板の間の座敷を素通りしたところで、中務はちょっと首を捻った。前を歩く近習に訪ねると、自室まで通すように言いつかっているという。
「……悪いのか」
「いえ。ただ、おそらく内々のお話であろうから、人払いをせよ、との仰せで」
腕を組み、中務は顔を歪めた。おおかたの予想はついているのだろう。それはそうだ、自分でもおそらく、そうする。いまは東西の例外なく、調略の手が伸びている。――だからこそ、治部は刑部を大垣に入れたかったのだ。城内であれば、目が届く。己のときと同じように、『情』で転ぶ前に、どうとでもできる、そう考えたゆえであろう。
哀れなことだ。治部は相次ぐ誤算で、目が曇ってしまっている。刑部は刑部で、いささか言葉が足りぬ。不幸な行き違いで、そこをつけ込まれてしまう。
こうしてしきりに調略しているのを、佐渡は抜け目なく大垣へ流しているだろう。内府が着陣し、時をあわせて小早川中納言が松尾山城を占拠したのを、大谷刑部は止めもせず黙認した――などと、少しばかりの鰭をつけてやれば、おそらく治部は大垣を出るだろう。
釣り出されたのだと治部らが気付くのは、南宮山の――すでに東軍に通じた毛利勢が、東軍諸将を見送った後であろう。
東軍には、野戦に長けた猛将たちが揃っている。内府自身も、老いたとはいえ、海道一と呼ばれた大将であった。大津を攻めている軍勢が、城を落としたという話もきかぬ。よしんば今日明日落ちたとして、一万をこえる大軍が到着するには、どれほど急いでも二日や三日はかかる。それでは伊勢の軍勢はといえば、すっかり手仕舞いの格好で、降る者も出始めたときく。
いま、大垣に拠る西軍で、まともに士気を保っているのは、宇喜多中納言と石田治部くらいのものだろう。このぶんでは明日か、よいところで明後日――と、中務はあたりをつけている。
「脇坂中務少輔様にございます」
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