平成の戦艦大和

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大日本帝国敗戦直前の4月、大和以下の第二艦隊が沖縄に特攻するという案が連合艦隊司令部から出たが、徳山の燃料廠が米海軍機動部隊の空襲を受け大破して第二艦隊を動かす燃料がなくなったため沖縄特攻は取りやめとなった。 呉で無為な時間を過ごしていた7月28日、米海軍機動部隊が呉に空襲をかけてきた。敵機は大和を集中攻撃したためほかの艦の対空射撃を大和に集められたため被弾6、被雷8を受け大破するも沈没することはなかった。 空襲が止んだ後に修理のためドッグに入り、修理中の8月15日に大日本帝国はポツダム宣言を受諾して降伏した。 大日本帝国が降伏したため修理を途中で停止し(まだ修理終了にはほど遠い状態)、進駐軍の指示を待った。 9月2日、東京湾のミズーリ艦上での降伏式典後、GHQ総司令官マッカーサー元帥は大和を新生日本海軍の象徴とすることを宣言。アメリカから技師と機械を呼び寄せ、年内中の修理完了を命令した。 そこにはアメリカ大統領の「日本軍をアメリカの駒として使いたい」という思惑が働いていた。 その後定められた新憲法の第九条には「我が国は自国防衛のため国防軍を保有する」「侵略戦争を否定する」という文言が明記されていた。 1945年11月に修理を完了した大和は12月16日に試験航海を行った。奇しくも竣工日と同じ日だった。 日本の軍事は海では空母、空では爆撃機の開発が禁止された(しかし占領下でのみで、後には開発研究がされた)。 我々の世界のような航空機関係の開発全面禁止はなかった。
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