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1950年日本はまだ占領下だったが、隣接する朝鮮半島では北朝鮮が韓国に攻め込み朝鮮戦争が勃発していた。
海上保安庁として組織されていた海軍が国連軍の傘下に入り掃海を行うことが決定した。海上保安庁の戦力は戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦30、掃海艦(艇)60だった。
主に駆逐艦と掃海艦が作戦を行っていたが、国連軍が仁川に上陸するとなったときには海上保安庁からも艦隊が送られた。もちろん大和を含む艦隊である。
大和を含む海上保安庁第一艦隊は仁川上陸戦の際に米艦隊と共同して艦砲射撃を行った。
戦史に残る戦いに参加した海保艦隊が日本に帰還した1951年2月22日、占領軍と日本政府の名で日本国防衛軍、通称国防軍が発足した。
発足時の国防軍兵力は、陸軍10万、海軍4万、空軍2万だった。
海保は海防軍となり、海防軍の傘下に新しく国境警備隊に当たる海上警備隊を作ることになった。
海軍の艦隊旗艦はBB-1「大和」となった。
これ以降大和は退役するまで日本国艦隊旗艦を勤めることになった。
1952年に独立を果たした日本国は国家防衛に最重要な海防に力を注ぎ、少ない軍事予算の半分を海軍に割いた。
1960年代、高度経済成長で国家予算が増えていくなか国防費を増やしていき、7兆円を超えた。それに伴い艦艇整備計画を定め、紆余曲折を経て大和を超える空母の建造が決定した。日本はアメリカに続くスーパーキャリアー保有国となった。
1960年代に整備した艦艇は100隻に及んだ。
1970年時点の海軍艦艇は戦艦1、空母3、巡洋艦20、駆逐艦30になりアメリカ・ソ連に続く海軍国となった。
ちなみに空母は4万トン級の飛龍型が二隻あり、もう一隻は7万トン級の通常動力型空母の翔鶴型空母である。翔鶴型空母は最終的に4隻造られた。
この世界では高度経済成長の妨げとなるオイルショックは起こらず(アメリカと安保は結んでいるが、産油国との間に相互援助同盟を結んでいる為。日本は軍事で、産油国は石油で援助する)1990年代に緩やかに高度成長が終わるまで深刻な不況は起こらなかった。
高度成長が終わる頃の国家予算は300兆(国防費は約40兆円)、人口は2億に届かんとしていた。さすがにこれ以上の人口は賄えないが。その為都会は超高層マンションだらけになっていたが、鉄道網が張り巡らされていてどこにでも鉄道で移動することが可能になっていた。
アメリカと違い広くない国土と・・・まあ金持ち様々という状態だろうか。
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