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ずっと研究室に籠っていると域値が下がる。
そういう時には散歩に出掛け、外気を胸に満たし木漏れ日を浴びるのが良い。
「萌香!」
…その名前を、呼ぶなと。
女は眉間に皺を寄せ、自分の方に走って来る男を睨んだ。
そう呼んで欲しいと以前ねだったのも彼女なのに、我が儘な事である。
「その呼び方は、今はやめて、俊行。思い出すから。」
「相変わらず気分屋だなぁ。……分かったよ。」
男は不満気に唇を尖らせながらも頷いた。
「ただでさえ、…名前が似てるのよ?」
「その文句は俺の親に言ってくれよな。」
「人に名乗る名前なんか簡単に変えられるもんよ。今の私は葵。オーケー?」
「ま、俺は大切な人には本名で呼んで貰いたいから。…なんてな!」
彼は真っ赤になって顔をしかめながら笑った。
どうしてこの人はこんなに首を絞められている様な笑顔をするのだろう、と女は疑問に思う事もあったが、
今ではその笑い方が癖なのだろうと理解している。
彼女は何それ、と笑いながら白衣を翻し、散歩を再開した。
彼が隣に並ぶ。女が目を遣ると、少し斜め上から彼が笑顔を与えた。
普段は自信たっぷりに振る舞う彼が、女の事についてだけは‘そうあろう’と努力している事を、女は知っている。
今も、彼女に安心を与えようと微笑み…それでいて彼女の内側を覗こうとするかの様に、大きめの瞳が彼女の口元を探った。
そう、その目だ…と彼女の意識はまた心の内側を向いた。
名前だけではない。
似すぎているのだ、
かつて愛した人に、
そして喪(うしな)った人に、
…魂の色が。
力強い意志を語る唇。
衆人を酔わせる瞳。
捧げる狂気の愛。
…それが人によっては畏怖になる事も知らない、純粋な緋(あか)。
確かに、彼と違ってこの人は一般人だ。
しかし、それだってどんな運命の悪戯で崩れるとも分からない。
彼と同じ状況に置かれたら、この人も同じ道を行くだろう。
それ程迄に……似ている。
女は自問する。
繰り返すのか、あの苦しみを?
あの日逃げた自分を救う為に?
この男に彼の面影を見たまま?
やり直せるとでも?
今度は大丈夫だとでも?
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