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穂波の放った一言は、周りの喧騒を一瞬にして沈黙へと塗り替えた。
店内に流れるジャズが、偶然にも曲間の静寂をそれに重ねる。
堰を切った様に泣き出した穂波。
驚きの表情を浮かべ、いつしかスツールから降りて佇む村田。
形容が困難な程に驚愕の表情を浮かべる、坂本少年……。
緩やかにその場を離れる店員。
目を見開く石橋。
見て見ぬ振りをするツナギの男。
呆然と、それを見守る私。
きい。
ほんの微かな軋みを立てて、トイレのドアが少しだけ開いたのが見える。
泣きじゃくる穂波と、立ち尽くす村田の間から、私にはそれが見えた。
だが。
そんな事はもう、どうでも良かった。
穂波の一言が呼び水となり、私の心をざらつかせる。
そして再び湧き上がる黒い邪念が私の思考を埋め尽くす。
穂波の一言は、それだけの力を持っていた。
坂本少年が、物凄い形相で村田を睨む。
彼の右拳がわなつく。
ごめんね、ごめんねと泣きじゃくる穂波。
彼女の言う
『ごめんね』
が、さらに色濃く私の心を侵蝕する。
「……けっ、だからケツの青い餓鬼は嫌なんだ」
自らの狼狽を打ち消すかの如く吐かれた、村田の虚勢の台詞。
少年の顔色は豹変し、今にも飛び掛からんとする彼の身体を遮る様に。
私はすっと自らの身体をそこに滑り入れた。
ぱあんという、乾いた音が店内に響く。それが合図だったかの様に、再び有線のジャズが次の曲を奏で始める。
唐突に左頬を平手打ちされた村田が、目を白黒させる。
周囲の人々も、私が取った行動に驚きを見せている。
──私だけで十分だ。
傷付くのは、私だけで十分だ。
酔いに身を任せた村田は、理不尽な物言いで全ての人々を傷付ける。
老若男女問わず、村田の吐く言葉は人々の心を抉る。
──傷付くのは、私だけで十分だ。
私は、有らん限りの声を上げて村田に攻め寄った。
……実際、この時の私が村田に対して浴びせ掛けた数々の罵声を、あまり良く覚えていない。
ただ、頭の中を埋め尽くしていたのは、穂波が流した泪の理由。
『私を利用した』
『坂本君』
『初めてを返して』
『ごめんね』
彼女が口にした言葉の断片と、坂本少年が見せた怒りの表情。
それ以上、言葉での説明は必要無い。
村田が穂波に何をしたか。
私が彼女の思考にリンクするのに、さほど時間はかからなかった。
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