アルビノ・コンプレックス

26/30
前へ
/52ページ
次へ
穂波の放った一言は、周りの喧騒を一瞬にして沈黙へと塗り替えた。 店内に流れるジャズが、偶然にも曲間の静寂をそれに重ねる。 堰を切った様に泣き出した穂波。 驚きの表情を浮かべ、いつしかスツールから降りて佇む村田。 形容が困難な程に驚愕の表情を浮かべる、坂本少年……。 緩やかにその場を離れる店員。 目を見開く石橋。 見て見ぬ振りをするツナギの男。 呆然と、それを見守る私。 きい。 ほんの微かな軋みを立てて、トイレのドアが少しだけ開いたのが見える。 泣きじゃくる穂波と、立ち尽くす村田の間から、私にはそれが見えた。 だが。 そんな事はもう、どうでも良かった。 穂波の一言が呼び水となり、私の心をざらつかせる。 そして再び湧き上がる黒い邪念が私の思考を埋め尽くす。 穂波の一言は、それだけの力を持っていた。 坂本少年が、物凄い形相で村田を睨む。 彼の右拳がわなつく。 ごめんね、ごめんねと泣きじゃくる穂波。 彼女の言う 『ごめんね』 が、さらに色濃く私の心を侵蝕する。 「……けっ、だからケツの青い餓鬼は嫌なんだ」 自らの狼狽を打ち消すかの如く吐かれた、村田の虚勢の台詞。 少年の顔色は豹変し、今にも飛び掛からんとする彼の身体を遮る様に。 私はすっと自らの身体をそこに滑り入れた。 ぱあんという、乾いた音が店内に響く。それが合図だったかの様に、再び有線のジャズが次の曲を奏で始める。 唐突に左頬を平手打ちされた村田が、目を白黒させる。 周囲の人々も、私が取った行動に驚きを見せている。 ──私だけで十分だ。 傷付くのは、私だけで十分だ。 酔いに身を任せた村田は、理不尽な物言いで全ての人々を傷付ける。 老若男女問わず、村田の吐く言葉は人々の心を抉る。 ──傷付くのは、私だけで十分だ。 私は、有らん限りの声を上げて村田に攻め寄った。 ……実際、この時の私が村田に対して浴びせ掛けた数々の罵声を、あまり良く覚えていない。 ただ、頭の中を埋め尽くしていたのは、穂波が流した泪の理由。 『私を利用した』 『坂本君』 『初めてを返して』 『ごめんね』 彼女が口にした言葉の断片と、坂本少年が見せた怒りの表情。 それ以上、言葉での説明は必要無い。 村田が穂波に何をしたか。 私が彼女の思考にリンクするのに、さほど時間はかからなかった。
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5821人が本棚に入れています
本棚に追加