2009.11.14

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 学校や仕事などに関わるあらゆる人と、たった一言でも言葉を交わすだろう。けれどたとえば、殆ど同じ内容を一日ニ十人の人に話すとしよう。そうすると面白い事が分かる。  内容が同じなだけにいっそテープ又はCDに録音して目の前で流せばいいんじゃないかという程疲れる。だが何故飽きもせず体力を消耗すると分かっていて話さなければならないのか。律儀といえば律儀なのかもしれない。だが先程も言ったように何故、飽きもせず話せるのか。  その答えは『反応による変化』である。相手も人が変われば反応の仕方が変わる。と同時に気が付けば自分自身も多少の言葉尻りやリズムに変化が起きてる事。最初は飽きがそうさせるのだと思っていた。だが違う。相手の反応によって返す言葉のリズムが変動し、飽きがこない。言葉遣いを変えるだけでも変化する。  というのは、相互反応による無意識化の対応力がそこに発生し脳内活動、心情、記憶、経験等が一気に情報化処理を行い会話のリズム感が出来上がる。時間にすればコンマ何秒。  おお。どんだけ脳みそ大活躍なんだ。  さらに配慮という気配りも繋がる。これだけの情報量と会話の掛け合いをしながら手先で別の仕事をこなす。しかもその作業工程にも計算を踏まえてなので僅かな時間の中でとなると……。  例えば主婦であれば、子供から目を離せず散らかさないようしつけながら、ちゃんと面倒を見つつオリジナリティな料理や味付けに工夫し旦那様の帰宅時間の頃にはお風呂の支度を整えつつ電話が掛かってきて対応。という感じだろうか。これらをほぼ同時にやる。これは効率が悪いからと工夫をする。  それが対応力。  対応力は優先順位を決めていく事から始めると便利だ。  つまり、主婦なら仕事を半分ずつに分担する。料理を作る時は子供が2才ぐらいから手伝わせる。それが楽しむひと時になる等。  今、話が逸れたが私が言いたいのはどんな事も『不器用』という言葉で片付けず『楽しむ方法を見付ける事』が大事であって、その後にくる『疲れ』は充実感のあるものか、ただ精神的に凹む程『疲れる』かによって人や物との関わりに『リズム感』があるかないかという事が明確になるという事だ。情報処理能力は機械じゃない。流れであり工夫でありどれだけ充実感を与えるかという『力』であるという事だ。  リズムを途切れさせた時乱された時、どんよりと疲れる。
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