2009.11.12

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 価値観の相違とは何だろう。  人は顔もスタイルも何もかもが既に違うつまり相違しているというのに。  人は何故、考え方つまり価値観というものに同一を求めるのだろうか。  ありふれた言い方かも知れないが、十人十色という言葉があるように、人にはそれぞれ異なった生き方考え方があっていいと思うのに。  そして私はまた思考を巡らせた。  そうか。  『求める高み』は同じなのかもしれない。同じとはいっても細かい分類に分けるものではなく、漠然とした大きな意味でなら有り得る。  十人十色が十人二色とか……。  そう考えれば確かにそうだ。つまり今生目指す道のゴール地点。お金持ちや成功や繁栄や夢や幸福。様々あるけれど、過程は大切だがその最後にあるもの。大きく分けてしまえばそれを価値観として埋める事が出来る。  ただどうしても外せないのがその過程にある道程の中で何を得るか誰と得るかで最後の『質』が変わってくる。いや道程でこそ『質』が問われるのではないだろうか。  大切だと思っていたものが貴人との出会いによって一瞬にして覆される事もある。  人生観は積み重ねられた自らの経験によって生み出されるのならば、縁を繋いだ瞬間から多くの選択肢が枝分かれし、自らの人生を歩むべき岐路に立たされる。  そこから発生する感じ方捉え方などにより価値観が蓄積される。  ならば価値観もまた、変化の途上にあるわけだ。価値観に絶対は無いと言えるだろう。  人は何かを物差しにして何かをはかる。  ならばその物差しが価値観という代名詞ならば、それもまた不変ではないという事だ。  己の価値観に縛られ、多角的な視点を見失った時、その人は狭き心の中で生きていく事を余儀なくされるという事か。  そういう私自身も、まだまだ発展途上である事を知らなくてはならない。  そして、同時にまだまだレベルアップ出来る可能性がある者だという事も忘れてはならない。  それが向上心であり希望である。  夢とは、常にその上に掲げるのだ――  
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