62人が本棚に入れています
本棚に追加
/122ページ
用意が終わり僕が頷くと、すでに柔軟体操と清潔な服への着替えを終えた小林はいつも通り銘柄のわからない酒を一口飲み、
黒いゴーグルをかけた。
ライダーが使うような大きめのものだ。
特注の品らしく、装着すると視界が完全に遮断されるらしい。
それからベッドに横になり、腕を伸ばした。
僕の仕事はその腕に注射針を刺し、中の液体を5ミリリットル彼の身体に注入することだ。
仕事と言っても自分でやるのが嫌だから、と押し付けられているだけなのだが。
これは特定の感覚以外をほぼ感じなくなる特殊な全身麻酔らしい。
一般人が手に入れられるような物ではないと思うのだが、詳しい事は聞いていない。
どうやら視力と意識はあるようだ。
ゴーグルをかける事で感覚のみをその身体に残しているのだろう。
それから何度か深くゆっくりと呼吸をしたあと肺の息を可能な限り吐ききり、息を止める。
4分ほどだ。
初めてこの行為を見た時に試しにやってみたが、僕には1分が限界だった。
途中で心臓が止まってしまうのではないかという恐怖を感じ、限界を感じたときに間違えて息を吐こうとしてしまい少し混乱した。
それまで息を吐いて止めたことがなかったからだろう。
経験がなかっただけだ。僕が馬鹿なわけではない。多分。
そして小林はこれを毎日百回ほど、日によって差はあるがだいたい10時間くらい行う。
無駄を省き、大切にしてきた時間をこの行為に費やすのだ。
僕はこの行為を『儀式』と呼んでいる。
儀式が終わったあと、決まって小林は不機嫌になり一言も発する事なく軽くシャワーを浴びるとすぐに寝てしまう。
全く意味がわからない。
何故あんなに無駄な時間を過ごさない彼が10時間もおかしな行為に身を投じるのか。
何かの宗教かもしれない。
それともこれが彼の趣味、または生き甲斐なのかもしれない。
そう自分なりに答えを見つけようとするのだが、わからない。
小林は数日前、一体あれは何をしているのかとしつこく質問した僕に一度だけ答えた。
「時間を、ためてんだよ」
と。
小林玲志は時間を溜めるのだ。
まぁ、好きなだけ溜めればいい。
僕には溜めた時間をどうするのかなんてわからないだろうし、その時間がなければ僕の心が落ち着く時間もない。
そのようにして、僕と小林の時間はそれぞれが約24時間とイコールになる。
僕には小林玲志を理解することはできない。
そう思う。
最初のコメントを投稿しよう!