古事記の間。

53/104

377人が本棚に入れています
本棚に追加
/119ページ
ではなぜ、情報が漏れないように言葉を作り上げたか?と考えると、当たり前の事ですが、情報という物を重視していた為です。 情報収集や国内の極秘情報を漏らさないという事はどこの国においても重要な事ですが、薩摩人の言語能力もさる事ながら、言葉を作ってしまうとは凄まじい事で、この根底には「関ヶ原の戦」での敗北の影響が強かったと思います。 薩摩・島津家にとっての関ヶ原の戦においての敗因は、御家事情もさる事ながら、やはり上方に対する情報不足だったと思います。 この関ヶ原の戦の敗因を教訓とし、情報の重要性を実感した為に、情報を他国へ漏らさない為に薩摩弁が生まれたのではないでしょうか? 戦国時代に相当なる衝撃を受けたからこそ、直後の江戸時代に新たな文化が生まれ、薩摩弁は「チェスト関ヶ原」の結晶とも受け取れます。 また、隼人の大嘗祭での任務は犬吠え以外にも二つありました。 一つは「大嘗祭で使用する竹の器を献上する」といった事で、これは南薩摩一帯は竹の産地であり、隼人は竹を使った様々な道具を作る技術が優れていた為のようです。 そしてもう一つが「隼人舞」でした。 これは隼人が朝廷への服属儀礼として演じるもので、褌(ふんどし)を着け、手のひらや顔を赤く塗り、水に溺れた時の動作を演じるもので、海水に足を入れる時には足占をし、海水が膝までくれば腰を撫で、脇まできたら手を胸に当て、首に達するて手を上げてひらひらと手を振るというものでした。 このような服属儀礼をし、忠誠を示していたわけですが、これを続けさせた朝廷も余程隼人を恐れていたのだと思います。 鹿児島県霧島市に「隼人塚」という供養塔があるようですが、これは720年に勃発した隼人の乱の際、隼人は千四百人に及ぶ死者と朝廷への捕虜を出し、この鎮魂の為に建てられた物のようです。 さて、このトヨタマビメに捨てられた子はアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(以後フキアエズ)というとんでもなく長い名前ですが、ニニギからこのフキアエズ誕生までの物語を「日向三代神話」と言い、フキアエズと母(トヨタマビメ)の妹との間にできた子がカムヤマトイワレビコノミコト(以後イワレビコ)であり、このイワレビコが初代天皇・神武天皇となるわけです。
/119ページ

最初のコメントを投稿しよう!

377人が本棚に入れています
本棚に追加