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「お嬢さんお逃げなさい。じきに大勢の警官がやってきます。ここは私にまかせて」
娘は我に返ったようにあたりを見回し、熊田に深くお辞儀をすると無言で走り出した。
熊田は近くの岩場から死体を投げ落とすつもりだった。そうすれば殺人は露見しない。男の死を転落事故に見せかけるつもりだった。
死体を持ち上げたとき、熊田の足元で何かがキラリと光った。
娘のイヤリングだ。熊田の背中から冷や汗が吹き出した。白い貝殻のイヤリングなど、この村に一組しかないことは、村の娘ならば全員知っている。
熊田はそれをつかんで走りだした。日ごろ柔道で鍛えた体である。若い娘に追いつくことなど造作もない。
「お嬢さん、お待ちなさい、ちょっと落とし物。これ、こんなもん残しといたらあとでどえらいことになる」
熊田は白い貝殻の小さなイヤリングを差し出した。
「あら……」
娘は絶句した。娘は深く胸を打たれた。昔の恩人の娘とはいえ、自分の職務をなげうって、この男はどうしてここまで。警察官なのに、私のような犯罪者にどうしてそこまで。
「……くまさん」
娘の大きな美しい目から、みるみる涙があふれ出した。
「ありがとう」
娘は、小さなイヤリングの乗った熊田の大きな手を両手で包み込んだ。
「お礼にうたいましょう」
娘は、男との関係とこれまでの犯罪をすべて自白した。
熊田の慟哭が森に響いた。
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