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相手は、よりにもよってクラスの担任。いつもシンプルな柄のネクタイを締めた濃紺のスーツが似合う男だった。歳は三十手前と若かったが、聞き上手で話すのもうまく女生徒にも人気がある教師で、進路相談をしているうちに親身になって話を聞いてくれる姿に転がるように恋に落ちていた。
気付けば溢れ出る想いをそのまま言葉にしていた。
告げるつもりのなかった想いは音にしてしまえば口のなかに戻るはずもなく、青ざめてしまった忍の肩を彼はやさしく抱きしめた。そして、目を細めて「うれしいよ」と告げたのだ。
色事の知識ばかり増えて経験などなかった忍は、そのやさしい手に身を委ね体すら捧げた。
言葉などはなかったが、自分の想いは彼に伝わったのだと、今まで幾度と咲くことなく枯れてきた想いが、初めて実ったと淡く疼く恋に間違いなく充実した一年を過ごし、卒業したことによって拓かれるであろう新たな二人の未来に胸を高鳴らせたりもしたのだ。しかし卒業式のあと、二人の時間を作ってもらい聞かされた言葉は、忍にとっては思ってもみない言葉でただ呆然と彼を見上げるしかなかった。
『一年か……結構楽しかったよ、相良』
軽く投げられた言葉は明らかに自分との温度が違っていて、強張った笑顔を向ければ不思議そうな表情で首を傾げられた。
『俺さ、来年結婚するんだ。女はメンドいけど、相良といるのは楽だったよ』
あぁ、そうか、と。
一年かけて、ようやく忍は理解した。
付き合っているつもりになって浮かれていたのは自分だけ、甘い恋人気分でいたのは自分だけで、彼にとっては結婚までの期間限定の愛人だったのだ。
ちゃんとした言葉を伝えられた記憶は確かにないが、触れる指先にはやさしさも労りも含まれていたし僅かながらも二人きりの時間を作ってくれていたのに、所詮それは忍との逢瀬を楽しむための演出に過ぎなかったのだろう。
キスも肌を触れ合わせたのも――それだけではない、好きなひとの傍にいられることの喜びや想うだけで切ない痛みを伴う感情もすべて彼が初めてだったのに、結局それは彼が恋愛ごっこを楽しむためにお膳立てしたものに過ぎなかったのだ。
泣くことは許されなかった。
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