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笑って「ありがとう」と言った彼に涙を見せるのは、忍のなかに僅かでも残っていたプライドが許さず、滲む涙を飲んでせめて最後の想い出に刻まれればいいと笑って見せたのだ。だが、そうしたところで忍の心に刻まれた彼の面影が消えることはなく、春先は大学に進んだばかりということもあり身の回りの変化についていくことで精一杯であったが、それも落ち着いてしまえばふとした瞬間に記憶の波間をかい潜り現れては忍の視界を歪ませた。
今思えば、彼にもその性癖が少なからずあったのだろう。
同じ性癖を持つ者から見る忍は、目を惹き付ける雰囲気が滲み出ており、忍自身がそれを知ったのは大学に入ってからであった。
同じ学部の友人に誘われ初めて足を踏み入れたゲイバーは、忍にとっては飾ることのない自分を晒け出すことの出来る唯一の場所となった。
恋愛を重ね肌を知れば、彼以上に好きになる人も現れ忘れられるだろうと思ったからだ。
しかし、一年経った頃も何も変わりはしなかった。
いくつもの恋愛をしてきたし、男を喜ばせる術も学んだが、結局は上辺だけの感情を紡いだだけでどれひとつとして忍の心には残っていない。
そうして真似事ばかりうまくなった。
ゲイバーという性質上、恋人同士だけではなくひとりで訪れる者も多く、カウンター席に座りひとりカクテルを持つ忍はしょっちゅう声をかけられていたが、いつだったかいつものようにひとりで座った忍へ声をかけてきたのが正宗だった。
『君、いっつもひとりだねぇ』
派手に染められた金髪、度の入っていない黒縁眼鏡、にこにことひと好きしそうな笑顔を浮かべて声をかけてきた男は、左胸のネームプレートを見せながら名を名乗った。
清潔そうな真っ白なワイシャツと黒のベストはこのバーのバーテンダーの制服で、カウンター越しに身を乗り出して見下ろされるのが何故か居心地悪かったのを今も鮮明に覚えている。あとになって、正宗が百九十センチの長身であることを知り、そのせいかと納得した。
いつもいつもひとりで飲んでいれば店員の記憶に残るのは当然のことで、声をかけてくる男たちを煩わしそうにあしらっているのを見ていたとバツの悪そうな表情で告げられ、わざわざ言わずにいればいいものをと嘘のつけない正宗の性格に知らず笑みを浮かべていた。
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