第1章

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 ――“それ”の名は闇によく響く。  月の明かりも、既にここには届いていないように思える。昼間ですら日の当たらぬこの場所は湿気と、埃と、それから血の匂いで満ちていた。  路地裏。その場所を聞くだけで、どんな暴力もよくある事と片付けられる。  路地裏。人の目を気にする弱者が暴力を奮う恰好の場所。  路地裏。けれど彼は、そんなことはどうでも良かった。  ぜいぜい、荒い呼吸が夜更けの空気に伝わってくる。  暗闇に慣れた目が映すのは、目の前で無様に倒れ伏す男の姿。埃、生ゴミ、あるいは糞尿。恐らくは街の不良や酔っ払い共が荒らしたその汚らしい地べたに、男は体の半分を付けていた。  その服の生地一つでも分かるのは、男の身分が低くはないこと。しかしそれは胸元から裂かれ、そこからの出血で既に服としての機能は半分近く失っているのだが。  日の当たる場所でまともな姿を見れば、おおよそ六十かそこらの。白髪は目立つがそれすらも品位にすら感じられるような、痩躯の貴族であったことだろう。  今では……ただの、死にかけの男である。 「どうして、どうして私が」  譫言(うわごと)のように発せられた言葉を、蹴散らされた鼠の鳴き声が退けた。
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