春のきみ

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春のきみ

「はい、ゆっくり目を開けてね」 声を頼りに、瞼を開くとクリーム色の天井が浮かんで見えた。 鑑賞用の水槽から発せられている気泡の音が、耳に心地いい。 ここは、精神科のカウンセリングルームの一室。 一年前に起こった悲惨な鉄道事故に巻き込まれて、私は記憶を失った。 連絡を受けて駆け付けた両親に対して、私は他人を見るかの様に接したらしい。泣き崩れる女性に声を掛ける事もなく、ふざけているのかと罵声をあげる男性に萎縮する事もなく、こう告げたらしい…。 「どなた様ですか?」と。 大した怪我が無かった私でもこのザマなのだから、心から大切にしていた人を亡くした人達の心は私以上に傷を負っただろう。 そして、私と同様に列車に乗っていた人達は地獄を見た。 PTSDに苛まれる人達を見て私はまだ幸せなんだと思ってる。 私が記憶を無くした事で、家庭を省みなかった両親が(世間体を気にして)家族を大切にする様になった…らしい。 だから、どーしたと言うのだろう? いつ戻るか解らない記憶という名の爆弾を抱えて、家族ごっこに参加しろと言うのだろうか? そんなのは、ごめんだった。私がいないくらいで揺らぐ人達ではない事は、痛いくらい解りきっていたから。
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