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ちょうどその頃の美濃国稲葉山、岐阜(岐陽)──
「主知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎかけし藤袴ぞも……脱ぎかけし主は知らねど紫……っ!」
吟じかけて、つまる。
秋風に、ほろりと零れる萩の花のように、今にも涙がこぼれ落ちそうである。それを、歯を食いしばって、きゅっと堪えているようであった。
山裾の人気なき野辺。一面藤袴が咲き乱れる中に、少女が一人、佇んでいた。
秋風がそよそよ。髪が顔にかかっている。鬱陶しいのか、華奢な指で払う。素直にまっすぐ伸びた綺麗な髪。しかし、風に吹かれてややごわついたか、一筋指先に引っかかった。
その痛みに堪えたのだろうか。まるで、屈辱に負けじと奮闘しているような顔。その明眸に、さらに涙が滲み出てくるようにも見える。だが、彼女は必死に堪え忍ぶ。
紫の中に立つ少女の白い姿は日に輝いて映えているのに──。眉を寄せ、何と戦っているのだろう。その小さな体いっぱい力ませていた。
引っかかった髪の痛さと同じに、心も痛い。
いや、違う。痛いのは彼の方。
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