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それは、くだらない正義感だったと思う。いや、実際にくだらない正義感だった。
いつもの学校帰り、通い慣れた道、見慣れた街、聞き慣れた喧騒。主婦や学生で賑わう商店街を抜け、閑静な住宅街へ。僕の家まで後十数分という所で、僕は『異常』に出くわした。
それは、黒い塊。
人の形をした、それでいて人なんかより遥かに大きい塊。
のっぺりとした能面のような頭部。大木のように太い剛腕。それらを支える脚。
道の両脇の何て事ないコンクリート塀よりも高く、家そのものまでにも届きそうな高さ。
そんな黒い塊が、遥か眼下の少女を見下ろしていた。
僕と同じ高校の服を着た少女だ。顔も、まして名前さえ知らないような他人だけど、この時の僕には彼女の感情がありありと伝わってきた。
恐怖だ。
それも、純然たる死に対する、恐怖だった。
――そう、この時、放って逃げればこんな事にはならかったんだ。まだあの黒い塊は僕に気づいていなかった。逃げおおせる可能性は充分にあった。
それなのに――それなのに僕は、気がつくと、走っていた。逆方向ではなく、真っ直ぐに、前へ。
これが、くだらない正義感と言わず何と言おうか。
こんな自分でも、人を救えるのではないかという勘違い。勘違いという名の偽善。偽善という名の愚かさ。
人間死にものぐるいでやれば大抵の事は何とかなるというが、それにしても限度というものがある。
何とかして少女は逃がせたものの、僕はその太い腕でコンクリート塀に叩きつけられて、この様だ。
――そして今、ゆっくりと、少女の魅とれるような美しい顔が離れていく。
唇に深く残る確かな温もり。
鼻をくすぐる例え様のない良いにおい。
何が起こったのか分からず、目を見開き、口を出そうとした――その時。
異常に見舞われた僕の体を、更なる異常が襲った。
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