一話 母とふるさと

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「あの、私ここで降りないと」 「あら、そうなの? ごめんなさいね、ずっとしゃべり続けちゃって」 「いえ、楽しかったですよ」  そう言いながら私は席を立ち、中心を通る通路へ出る。 「あ、兵隊さん。最後にお名前、いいですか?」 「谷川、谷川和雄です。干し柿ありがとうございました。では失礼します」  私は一礼し、電車を降りた。戸が締まり、茶色い車体が連続した唸り音をあげて加速する。私はそんな電車に向かって再度頭を下げた。  二両編成の長い車体が山々の谷間に消えていった後、空を見上げる。  薄めた藍を塗り広げたかの様な青空に、刻一刻と形を変えながら流れる雲がなんとも気持ちがいい。  強めの風が私の真っ白な第二種軍服の裾をめくった。  改札の駅員に切符を渡し、外へ出る。駅周辺の街はまだ新しく、老朽化した建物は昔からこの地に建っていた数軒だけにとどまっている。  元々ただの田舎だったここ鈴蘭台は昭和三年、私が生まれて翌年に神戸の避暑地として開発が始まっている。  スズランと言う名前も関西の軽井沢にふさわしい名前として決まったものだ。ただ、個人的なことではあるが私はスズランの花を見たことがない。  南へ視線を向ければ六甲の山並みと菊水山がひときわ際立っている。あれを超えればすぐ海だ。そのまま後ろを向いても左右を見ても幾多の山々に囲まれた街である鈴蘭台。  有馬街道を通れば海辺の都心から近く、避暑地となったのは当然だったのかもしれない。  その時空襲警報のけたたましい唸りが菊水山を越えてかすかに聞こえてきた。  アメリカの空襲が続き、毎日警報がなるという現状。それが目と鼻の先で起こっている。痛烈な危機感が私の身を襲った。 「そんなことないですよ。むしろ気がほぐれてありがたいぐらいです」
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