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  佐原村の豪農、吉衛門宅には、見事な柿の木が池にその影を映して立っていた。 大きく育ち過ぎたため、上の方の実は採りきれず、今は、じくじくした柿が池傍にちらばっている。 庭の造作は立派なのに、柿のまわりだけ庶民的な親しみをただよわせていた。 吉衛門家の女中で十四才のおむらは、拭き掃除の後の水を捨てるかたがた、微笑ましく潰れた柿を眺めた。 実家にも柿の木があり、子供たちは熟すのを今かいまかと心待ちにていた光景を思い出したのだった。 「おむらーっ」 母屋から先輩女中の甲高い呼び声が聞こえた。 おむらは、はっとして返事を返すと、手早く桶を片して勝手口へ走った。 「おそい。なんで掃除の後を片すのにこんなにかかるんだい」 狐目の女中頭は、つり上がった目をさらにつり上げて、いらいらと小言を言った。 女中の中で一番年若く、仕事も早いとは言えないおむらは、何かと先輩に目をつけられやすかった。 女中頭は、先輩の中でも一番苦手だ。 「すみません」 おむらは詫びたが、女中頭は、聞いているのかいないのか分からない口調で続けた。 「掃除はもういいから、これからマルの散歩に行きな」 「え、でも……」 おむらは口ごもった。 マルというのは吉衛門の飼い犬で、気性が荒く、とても女子供が気軽に散歩できるような代物ではない。 いつもは、下男の利助が連れて行っていた。 「利助さんは朝から旦那様のお供なんだよ。早く行きな、散歩の時間に遅れるだろ」 いちいち説明させるな、と言いたげに、年配の女中頭は首を振った。 「半刻で帰ってくんだよ、お昼の支度もあるんだからね」 女中頭が念を押すと、おむらは、はいともいいえとも言えない内に、散歩用の縄を押し付られ、外へほうり出されてしまった。 仕方なく、おむらは重い足を引きずって、玄関先へ向かった。  
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