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おむらがマルの散歩を任され、数日が経った。
相変わらずマルは、行きの全力疾走と帰りののんびりを繰り返し、おむらを体力と精神の面で疲労させていた。
おむらはマルの事は諦め、代わりに時間を作るため、おむらの考えうるかぎり懸命に仕事をこなしたが、時々昼に遅れた。
他の女中にはマルの散歩の苦労など想像できないらしく、おむらの遅刻は、先輩たちの心証を悪化させ続けていた。
日を追うごとに、おむらは居心地の悪さを肌で感じるようになり、ふいに息苦しくなってこっそり深呼吸を繰り返したりした。
そして、からりとした秋晴れの日のことだった。
その日は北風が強く、マルに引っ張られるおむらは、向かい風で息をつまらせながら走っていた。
寒さで感覚が薄れている手で必死に綱を掴みながら、おむらは、自分の眼から涙がこぼれていることに気が付いた。
とくにその時、特別なことを考えていたわけではない。
だが、間違いなく生理的ではない涙が流れている。
おむらは、心の器が鬱屈した気持ちで溢れ、とうとう決壊したのだ、と思った。
自分が可哀相になった。
しかし同時に、その原因が他人のせいだけではない事も、薄々悟っていた。
「うふふ……。へへっ」
何故か笑いが込み上げた。
おむらは顔をくしゃくしゃにして泣きながら、声を出して笑った。
もうどうでもいいや。
何でも好きにしてよ。
おむらは自分に向かってつぶやくと、マルの散歩綱を手放した。
「もう知らない。私、知らない。勝手にしてよ……もうやだ」
解放されたマルは、あぜ道をどんどん遠ざかっていく。
刈り入れを終えて閑散とした水田を、切り裂くような勢いで焦げ茶の塊が走る。
あっという間にその姿は、常緑樹の林に消えた。
今度こそ、おむらは声をあげて泣いた。
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