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わたしは金魚でした。大きな水槽の中にはたくさんの金魚が容れられていて、その中の一匹でした。金魚はとても楽です。わたしたちの赤い赤いスカートをくゆらせて泳ぐだけで、お父様やお母様は綺麗だ綺麗だ、と、わたしたちを褒めてくれます。金魚たちは無心に泳ぎます。褒めて貰い餌を与えられて、赤いスカートを水の中でくゆらせていられれば、金魚たちは幸せでした。
しかしわたしは出来ませんでした。何故ならわたしの目は生れつき潰れており、端から見ればまるで化け物のような、不気味な魚だったからでした。美しいものがお好きなお母様は嫌そうに、お父様に言いました。
「あなた、この金魚は気味が悪いですわ。捨ててしまいましょうよ」
するとお父様はすべてを見透かすかのような、細い目をさらに細め、水槽のわたしを見ながらおっしゃいました。金魚たちに餌を与えるお父様の指は、細く、青白く、まるで神のようでした。
「不完全だなんて、まるでこれは僕のようじゃあないか。ねえ」
お父様は有名な悲観主義者でした。お父様のお仕事は自分の悲観を、文章にあらわして、それを売ることでした。いわゆる小説家というものです。お父様は、小さな金魚鉢を買って、その中にわたしだけをお容れになりました。そして小説を書いている傍に、わたしを置いて下さりました。
「恥を売っているんだよ。これは、僕の、恥なんだ」
お父様は小説を書きながら、よくその台詞をおっしゃいました。お父様の人生には恥しかなくて、そこから哲学や、文章を産んだのだ、とよく言っておられました。父であり、母であるのだ、とぶつぶつ呟きました。
父様は仕事の傍ら、おたわむれに金魚鉢に神のような指をお入れになったりしていました。ちゃぷん、と音のする度、お父様の哲学が水と一緒に流れ込み、金魚鉢の水の色が変わってゆくのが分かりました。哲学の色に染まってゆくわたしを、お母様は厭な眼をして見ました。
そしてわたしは程なくして、お父様のほんとうの娘になりました。しかしお父様は、哲学の全てをわたしに流し込み、何処かへ消えてしまったのです。わたしは泣き腫らしましたが、無い目から涙がこぼれる訳もなく、ただ死んだようにぽっかりと浮かんでおりました。そんなわたしを、母様は忌ま忌ましい目で見ておられました。
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