牛鬼

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 幼稚園時代、たまたま同じバラ組という事もあり、当時から僕と裕一はわりと仲が良かった。  同じ町内とはいえ田舎の事であり、互いの家は1.5キロくらい離れていた。  裕一の家の近くには小川が流れていて、ザリガニや小魚が簡単に取れるので、僕は自転車に乗ってよく裕一の家まで遊びに行ったものだ。  自分でいうのも何だが、僕の方が裕一の何倍もザリガニ捕りも魚捕りも巧かった。  喜代美おばさんはよく、「うちの裕一がザリガニを一匹捕まえる間に、晶真ちゃんは4・5匹捕まえている。」などと笑っていたものである。    裕一は色白でおっとりとしていて、外見は喜代美との共通性があまり無かった。  性格も繊細で、優しく内気な少年だった。  芸能人でいうと、国分太一に似ている。  そんなおとなしい裕一だったが、一度僕は彼に本気で怒られた事がある。  おばさんは夕方6時から仏壇に向かって一時間ほどお経を挙げる。  当時創価なんて知らない僕は、別に違和感も疑問も感じなかった。  僕の母の従兄が住職で、春・夏・暮れと遊びに行くと、親戚の子供達と一緒にお経を挙げていたからだ。  20分くらいの長さで、お経の言葉も違う。  もちろん普段はお経は挙げない。  早口でお経を挙げる喜代美おばさんが、「南妙法蓮華経」と唱えているのが僕の耳には、「もう逃げろ」に聴こえた。  そう裕一に言うとあの普段おとなしい裕一が、「母ちゃんをバカにするな!!」と怒鳴った。  今思えば田舎のことで、創価学会員は偏見の目で見られた。  しかも裕一の母親は当時は珍しいトラックの運転手、ましてや女だてらに焼酎と煙草をやる。  当時としては型破りな女として奇異の目で見られ、近所からは遠巻きにされていた。  当然近所の子供達も、親に「あの子と遊ぶな」と言われていただろう。  事実、小学校でも裕一は近所の子供達より別な町の子供達と仲が良かった。  僕の母も内心あまり良くは思っていなかったらしく、口には出さないものの良い顔はしなかった。  そんな空気を裕一は子供心ながら察して、自分の母親を馬鹿にする者が余計に許せなかったのだろう。    喜代美おばさんは息子の友達である僕に優しかった。  しょっちゅう「ご飯を食べていきな。」と声をかけてくれた。  ただ、おばさんの料理はほとんど酒のツマミのようなおかずばかりで、しかも漁師料理みたいに荒っぽく、正直口に合わなかった。
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