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『紫の肖像』の制作は難航を極めていた。
メンバーの疲労蓄積とスケジュールに対する不満が根底にあるといわれているが、
それでもIan Paiceによってミキシングが行われ、
LIVE in JAPANとほぼ同時期の
1973年初頭にリリースされた。
しかし評判は良くない。
最初にシングル・カットされた
「Woman From Tokyo」も、
かつてのBLACK NIGHTやFIREBALL、Highway Starなどと較べてヒットしたとは言えなかった。
メンバー間の不仲も、
もはや修復が不能な段階まで来ていたといわれている。
まずRoger Gloverがスケジュールの不満から脱退を口にする様になり、
これと平行してブラックモアがギランのボーカルに不満を感じる様になっていた。
ギランもマネージメント側に脱退を表明し、
ブラックモアもペイスを誘って脱退することを考える。
だが今までの成功を失いたくないペイスとロードに説得され、
ブラックモアはバンドに留まることを決意する。
その説得とは、ギランはまもなく辞めるし、グローバーもクビにするから、
と言うものだったようだが、真相は明らかでは無い。
またブラックモアがグローヴァーに対して音楽的な不満を持っていたという説は、
後にグローヴァーがレインボーに加入した点を考慮すると説得力に欠ける。
だが事実として、
ギランとグローヴァーは1973年6月29日の日本公演最終日を最後に脱退している。
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