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サクラは帰った。
僕は、サクラに橘のことを彼女かと聞かれたとき、答えられなかった。
だって……僕たちの関係に、名前なんてないのだから。一体そういうのは、いつ決まるのだろうか。
橘の寝顔を見ていた。いつもと変わっていなかった。いつか離れると思うと、急に怖くなった。
サクラに言いすぎたかな…と、僕は罪悪感にまみれた。サクラを想うと、いつもピアノを弾いていた、彼女の指ばかり浮かぶ。
ふとピアノの鍵盤に触れたくなった。僕はそっとピアノの蓋を開けた。月夜に、黒鍵がなじみこむ。てのひらを立てて、鍵盤を叩く。音が、水の糸のように離れて、虚しく響いた。
僕の指は辛うじて、付け根だけ残っていた。けれど、こんな指とも言えないもので、弾けるはずもない。
僕は弾けない手で、悲愴を弾いた。無論、音になるはずもなく、ただ鍵盤を殴っているだけだった。
不響和音が汚らしく部屋の中でうねっている。僕は崩れ落ちた。指の付け根から血が滲む。涙が止まらない。
ピアノの中で、揺らめき共鳴していた音は、次第に聞こえなくなった。僕はそれを、聞こえなくなっても聞いていた。
またピアノが鳴りはじめそうだった。
僕はそれを待っていた。
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