Dear a river

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 次の日ようやく降り続いていた雨が止んだ。あの暗くて澱んだ朝を迎えなくて済むと思うと、心はどこまでも晴れやかだった。それに夫は今日、釣りに行かないようだ。  映画でも見に行こうか、と夫が言った。私は黙ってほほえんだ。すると夫はちょっと驚いていたが、ちゃんとほほえみ返してくれた。言葉は水と一緒にどこかに流れて行ったのだ。ずっと降っていた雨。乾燥した空気。日の匂いをはらんだ風。どれも言葉にしなくていいものだ。そして、それらは、ほとりから始まってほとりに帰るのだ。少なくとも魚にとっては。  私は何気なくテレビをつけた。空気が一列に並んで、川が映し出される。ブルーシートに警察と、お決まりの連中だ。男が画面に映った。肩を震わせて、涙をだらしなく流している。その背中を誰かがそっと抱くと、いっそうしゃっくりの音が大きくなった。近所、そのまた近所にもこの男は映っているんだろうな、と思った。  夫はほほえんだまま、「やっぱり釣りに行ってくるよ」と言った。私の唇にそっと触れた後、身支度をしに自室に向かった。私はそれを追う。ねぇお願い、どこに行くのよ、なんでよ、釣りになんか行かないで。 「なんか?」と夫は声を荒げた。「釣りは面白いぞ。きみもやってみるといい」  いやよ、と一緒に口から歯が零れ落ちた。きれいな真珠が床を叩く、気高いハイヒールがオフィスビルを歩く、そんな音に似ていたけれども足元に転がっているのは私の大事な歯だった。 「なんだ、歯が抜けているじゃないか」と夫は笑い、「そんな人とはまともに会話はできないな」と言った。  夫は歯医者に行ってきなさい、と私に現金をいくらか渡し、輝かしい日の光に包まれた。  
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