「見知らぬ夫婦」

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 玄関には磨かれた革靴が見えた。私が毎日磨いていた夫の靴だ。  その横に自分の靴を脱いで並べた。玄関でしか並ぶことのない二人の靴。  居間に入ると、夫は私の用意した服を着て、座卓の前でいつものように新聞を読んでいた。旅行鞄は、私が昨夜置いた場所から少しも動いていない。 「お仕事は何時から?」  新聞から、ちらりと夫の顔が見えた。 「昼からだ。もうすぐ出る」 「そうですか。では家を出る前に、判子だけいただけますか」  私は鞄の中から、封筒を取り出した。市役所の封筒から取り出した離婚届を、がさがさと音を立てながら座卓の上に広げた。  夫がまた新聞の隙間から顔を覗かせる。一瞬だけ見えた顔は、不愉快だ、とあからさまに表していた。 「今まで誰に養ってもらったと思ってるんだ、お前は。ふざけるな」 「私はその代償に、家事をして、夫であるあなたの世話をしてきました。生活と娘の養育にかかる以外のお金は、全てお返ししてきたはずです」  毎月毎月、黒字のあった分は全て夫に渡してきた。だからこの家には、夫の収入による貯金は一つもないのだ。 「そんなことは仕事じゃない。女のお前がして当然のことだ。なにが代償だ」 「あなたがどう思うと、世間では家事は労働だと認められています。――判子をいただけないのであれば、次は代理人の方に来ていただきます」  大きな音を立てて、新聞が夫の膝に置かれた。  私は久しぶりに見る夫の顔をしげしげと眺めた。来年で定年を迎える、鬼瓦のような男の顔。 「代理人だと?」 「離婚の調停を申請してありますので、週明けには通知も届くはずです」  これは娘にも知らせていなかった。  もし夫が今回の旅行に同行すれば、もう少し、来年の夫の定年まで離婚を先延ばしにしようと話をしていた。――私は来ても来なくても、最初から離婚することしか考えていなかった。  だが夫が離婚に応じないことはわかっていた。だから離婚経験者に相談をして、どうすれば確実に離婚できるかを学んだ。和裁を始めたことで出会いは広がり、その出会いは、様ざまな知識を会得するいい機会になっていた。
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