「見知らぬ夫婦」

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 ごつごつした男の顔がみるみる怒りに赤く染まっていく。 「お前一人で生活なんてできるわけがないだろう!」  大きな拳で座卓を叩けば、その振動で離婚届が浮き上がった。それをまた夫の前に戻し、わなわなと震えるその男を見上げた。 「もう十三年も前から、私は和裁の仕事をしていますよ」 「……なに」 「私が通っていた和裁教室へ、今度講師として呼んでいただけることになりました。――それに、娘夫婦が一緒に暮らそうと言ってくれました。引越しは来週中に済ませてしまいますから」  膝にあった新聞紙を力任せに丸め、それを私に投げつけてくる。痛みはない。もう、心さえも痛まない。 「この恩知らずが!」  立ち上がって叫ぶ男の姿が、ひどく小さく見えた。結婚した当時はあれほど怖かったというのに、今は孫息子ぐらいの小さな男の子が、癇癪を起こして暴れているようにしか見えなかった。  そう――そうだったのだ。夫は我侭な子供のままだった。結婚したとき、私は二十歳で、夫は二十五歳だった。  お互いに未だ、未成熟な子供の心を残したまま、そのままきてしまった。  夫にとって私は女でも妻でもなく、母親の代わりに世話を焼く、そんな役回りをあてがわれただけだったのだ。  離婚を前にした今になって、今だからなのか、そんなことに気づいたところでもう引き返すことも、引き返すつもりもなかった。  結婚してすぐに家を出された夫は拗ねていたのかもしれない。そして今、その役割をあてがった女にも捨てられそうになっている。  両手の拳を震わせる男に、初めて憎しみや、絶望や、あきらめ以外の感情を覚えていた。 「もっと早くに、言えばよかったのかもしれませんね」  お互いが未だ、手の取り合える距離にいる間に。 「もう二人きりでお会いすることもないでしょう。――さようなら、源二さん」  結婚してから、ずっと呼ばなかった男の名を呼べば、握られていた拳が僅かに緩んだ。私を見下ろしてくる目に寂しさが浮かんだのを見逃しはしなかった。  口の端が自然と上がる。きっと私はいま、笑っている。 「江都子……」  搾り出すように私の名前を呼んだ男に答えることなく、私は無言で背を向け、靴をはいて玄関を開ける。  居間で立ち尽くしていた男と、もう磨かれることのない玄関の革靴を置き去りにして。 了
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