「見知らぬ夫婦」

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 私が娘を身篭ったのは結婚してすぐのことだった。その頃から夫の帰りが遅くなり、ついには帰ってこない日もあった。  夫は次男で、結婚してすぐに二人で暮らし始めたのだが、その中で一人でなかった時間は少ない。長男の嫁はひどく私を羨ましがっていたが、身重の身体を大切にされている彼女のほうが、私には妬ましく思えたものだった。  子供が産まれれば、この子が大きくなれば、娘が結婚するときにはきっと。 「おい」  名前を呼ばれることはない。だが、夫の声は私を呼んでいる。 「なんですか」  私は手を止めず、夫のほうを見ずに返事をした。  新聞を捲る音が聞こえた。 「週末は仕事だ」 「そうですか」  端から温泉旅行になど行く気はなかったのだろう。それもわかりきっていたことだ。  座卓にはパンフレットもチケットも、全て置き去りにされたまま放置されてある。娘の由紀は、自分の家族の許へ帰っていった。  由紀の夫、泰道さんはどこか気弱そうに見えたが、優しく、小さな孫息子の面倒もよくみてくれている。旅行を提案してくれたのは彼なのだと、娘は嬉しそうに話してくれた。  泰道さんの気遣いを無駄にしてしまうのは心苦しいけれど、娘としてもこうなることは承知の上で旅行の話を持ってきたのだ。  浴衣に白い絹のしつけ糸を通していく。芭蕉布の浴衣にくっきりと浮かぶ白い糸を見つめて、私は一旦針を置いた。 「一応旅行の準備だけはしておきますから」  気が変わったら、そうでかかった言葉を飲み込んだ。  夫から返事はない。  私はまた針を通していく。もうすぐこの浴衣は仕上がる。旅行の前には、全てが終わっている。
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