「見知らぬ夫婦」

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「もう完成するの? これ」 「ええ、もう今日中にはできるかしら」  娘は、夫のまだ帰っていない時間を見計らって家にくる。仕事帰り、夕食の買出しまでしてきてくれることがあった。 「じゃあ明日の旅行には間に合うのね」 「だけどね、お父さん仕事だって」 「そう」娘は驚いた様子もなく、ただ低く頷いただけだった。 「そうだ。手が空いたときでいいから、普段着れるような着物縫ってよ」 「この間、黒留作ってあげたでしょ」 「そうだけど。訪問着とかじゃなくて、もっと気軽に着れる着物がほしいの。ちょっと出かけるときに着物なんて素敵でしょ」  若い娘のようにはしゃぐ姿に、私は思わず笑ってしまった。 「そうね。じゃあ今度ね」 「約束よ。一緒に布も買いに行こうね」  私が頷くと、娘は笑った。満面に笑う娘の姿が嬉しくて、じっと彼女を見つめてしまう癖がついた。  それに気づいて、娘はまた笑ってくれるのだ。  私に和裁を勧めてくれたのは娘だった。 「きっとお母さんに向いてる」  高校を卒業してすぐに働き出した娘は、初任給に和裁道具セットを私にプレゼントしてくれた。 「一人で家のことばっかりやってるから、いろいろ考えすぎちゃうんだよ。お母さんだって自分のやりたいことすればいいの。昼間、ちょっとの時間講習受けに行ってたって、あの人が気づくと思えないし」  半ば強引に、娘に背中を押されながら和裁教室のドアを開けた。  ずっと黙々と針を通していく作業は、私にとっては苦痛なものでなく、寧ろ久しぶりに気持ちが穏やかになるのを感じていた。  教室には二年も通っていたのだが、娘の言ったとおり、夫がそれに気づくことはなかった。  その頃から、私は常に針を持っているようになった。少しでも間が空けば、すぐに着物を縫い始めた。  そして夫と二人きりでいる時間も、沈黙を苦しいと思わなくなっていった。
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