3人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
「もう完成するの? これ」
「ええ、もう今日中にはできるかしら」
娘は、夫のまだ帰っていない時間を見計らって家にくる。仕事帰り、夕食の買出しまでしてきてくれることがあった。
「じゃあ明日の旅行には間に合うのね」
「だけどね、お父さん仕事だって」
「そう」娘は驚いた様子もなく、ただ低く頷いただけだった。
「そうだ。手が空いたときでいいから、普段着れるような着物縫ってよ」
「この間、黒留作ってあげたでしょ」
「そうだけど。訪問着とかじゃなくて、もっと気軽に着れる着物がほしいの。ちょっと出かけるときに着物なんて素敵でしょ」
若い娘のようにはしゃぐ姿に、私は思わず笑ってしまった。
「そうね。じゃあ今度ね」
「約束よ。一緒に布も買いに行こうね」
私が頷くと、娘は笑った。満面に笑う娘の姿が嬉しくて、じっと彼女を見つめてしまう癖がついた。
それに気づいて、娘はまた笑ってくれるのだ。
私に和裁を勧めてくれたのは娘だった。
「きっとお母さんに向いてる」
高校を卒業してすぐに働き出した娘は、初任給に和裁道具セットを私にプレゼントしてくれた。
「一人で家のことばっかりやってるから、いろいろ考えすぎちゃうんだよ。お母さんだって自分のやりたいことすればいいの。昼間、ちょっとの時間講習受けに行ってたって、あの人が気づくと思えないし」
半ば強引に、娘に背中を押されながら和裁教室のドアを開けた。
ずっと黙々と針を通していく作業は、私にとっては苦痛なものでなく、寧ろ久しぶりに気持ちが穏やかになるのを感じていた。
教室には二年も通っていたのだが、娘の言ったとおり、夫がそれに気づくことはなかった。
その頃から、私は常に針を持っているようになった。少しでも間が空けば、すぐに着物を縫い始めた。
そして夫と二人きりでいる時間も、沈黙を苦しいと思わなくなっていった。
最初のコメントを投稿しよう!