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夜の八時過ぎに帰ってきた夫は、「風呂」とだけ言って座卓の前に腰を下ろした。今日は夕食を外で済ましてきたのだろう。
「すぐに入れますよ」そう言えば、夫はすぐに立ち上がった。
「明日の旅行の荷物、ここに置いてありますからね」
居間を出て行く背中に声をかけてみたが、やはり夫からの返事はなかった。
浴衣は夫が帰ってくる前に仕上がってしまっていた。使っていた針や糸を整理して、手持ち無沙汰になると天井を見上げた。
そこになにがあるわけでもないのに、ついぼんやりと天井を見つめてしまうことがあった。
着物を縫っているときはこの癖も出ないのだが、なにもすることがなくなると、つい天井を見つめてしまう。
それを咎めるように電話が鳴り始めた。私は立ち上がり、受話器を手にする。聞こえてきたのは、娘の声だった。
娘との電話を切ると、私は風呂場へと向かった。脱衣所に立って夫に声をかけてみたが、聞こえないのか、答える気がないのか、返事はない。
私は少し声を張り上げるようにして、これから娘夫婦の家に行って来ると伝えた。
「子供が熱を出したそうなの。大したことないみたいだけど、今日は泰道さん遅いらしくて、ちょっと様子を見に行ってきますね」
聞こえてきたのは、ぱしゃりとお湯の跳ねる音だけだった。
「今日は娘のところに泊まりますから。明日は十一時に間に合うように駅に行ってますからね」
私は夫にそれだけ告げて、できたばかりの浴衣と、自分の旅行鞄を持って家を出て行った。
脱衣所には夫の着替えを置いてきてある。そうしなければ、あの人は自分の下着や服や、靴下の一足までどこになにがあるのかわからない。
明日の服も、旅行鞄の横にそろえきた。
電車に揺られながら、私はそっと目を閉じる。
明日の午前十一時、駅に夫の姿はないだろう。そう思ったところで、今さら落胆することもなかった。
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