「見知らぬ夫婦」

9/11
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
 梅雨時期だというのに、見上げた空はどこまでも青空が広がっていた。  私は旅行鞄を持ったまま、その空を眺めていた。見慣れた天井をぼんやり見つめるのとは違う、不思議なほど清清しい気持ちで空を見上げていた。 「やっぱり来なかったね……」  駅前の時計は、十一時二十分を指していた。先ほど伊豆行きの新幹線が出て行くのを、娘と二人で見送ったのだ。  チケットの払い戻しをして駅前の広場に戻ってきたのだが、やはりどこを捜しても夫の姿は見つからなかった。 「迷惑をかけることになるわね」 「やめてよ、そんなこと言うの」  怒ったように言った娘は、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。  娘にとっては血の繋がった父親で、まだどこか、夫に期待していた部分があったのかも知れない。 「由紀がいい子に育ってくれて、お母さん本当に嬉しいの」 「だから、やめてってば……」  堪えきれない涙を隠すように、娘は私に背中を向けた。  娘の背を見つめながら、私は自分が笑っていることに気づいていた。娘は泣いているのに、私は笑っていた。 「お母さん、これから家に戻るわ」 「うん」背中を向けたままの娘の声は涙を含んでいた。  それでも振り返った娘は笑っていて、今度は私のほうが少し涙ぐんでしまった。  娘が笑っていてくれることが嬉しかった。いま見せている娘の笑顔が、精一杯の作り物であったとしても。 「一緒に行こうか?」 「大丈夫。仕立て終わった浴衣も届けないといけないから、お母さん一人で行ってくる」  そう言えば、娘はちらっと眉根を下げた。曇った笑顔を元に戻して、「今日、届ける約束してたんだ」と言った。  そっと笑う。――私の中には、夫に対する希望はもう欠片もない。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!