第Ⅷ章 右手

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先生に連れられピアノ椅子に腰掛けると、いつもなら帰り際に出てくるコーヒーの匂いが僕の鼻腔をくすぐった。こんなことはもう一年近く通っているのだけれど、初めてのことだった。 何か大事な話しがあるのだろうかと考え、先生の口が開くのを落ち着かない心持ちで待ち続けた。 先生が言葉を口にしたのは、机に食器を置くような音がした直後だった。 「えっと拓海君、いきなりで申し訳ないんだけれど人前でピアノを弾いてみる気はないかしら?」 確かに先生が言ったことはいきなりだった。言っていることを理解するのに、ほんの数秒の時間を要した。 「それは……コンクールとかそういったものなんでしょうか?」 言って直ぐ、僕はいつもカップが置かれている場所に手を伸ばし、匂いを嗅いだ後口をつけた。一口含んで喉に通し、相変わらず美味しいコーヒーだと思った。 「そんなに形式ばったものではないのよ。子供の発表会とでも思ってくれればいいわ」
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