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「かあちゃん、ウチどうしても行かな駄目と」
数えで十の幼い娘は、鼻をすすり声を震わせた。
木綿の粗末な着物は、あて布の数が古さを物語っている。
「ごめんなハツ。姉ちゃんやろ、我慢しい」
母は褪せた風呂敷を縁側に広げた。
数枚の着替えと取っときの握り飯を乗せ、丁寧に上下を畳む。
「ほら、早よせんか」
苛々した男の声が降る。
「早よ出んと博多に着くんが遅なる。俺が怒られるとばい」
不機嫌な顔で急かす男は、ハツ達より数段上質の着物を着込み、痩せぎすで神経質そうだ。
母は包みを子の背に乗せ、喉で左右を結ぶ。
「立派な問屋さんやけん大丈夫。腹一杯食べられる」
そして優しく子の肩を抱いた。ハツは途端に声が詰まり、代わりに頭を前に倒す。男はそれを見ながらフンと哂った。年季奉公の食事など一汁一菜と粥を朝晩、それ位だ。
「なら急ぐばい」
大股で歩き出した男を慌てて追いかけるハツ。振り向くと母が居る。
この光景を忘れない。
最後のかあちゃんも、忘れない。
まだ見たかったが、男はずんずん進む。前を向き、走る。やっと追いつき後ろを振り返ると、もうかあちゃんは丘に隠れて見えなかった。
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