心配するということ。

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心だけで心配することは本当の心配ではない。 それはただの傲慢に過ぎない。 心配しているよという意思表示は時期的にいえば遅すぎる。 まあ、心配すること自身が傲慢なのだけれど。 他人が心配する前から崩壊は始まっており、気づいた頃にはほぼ6割7割崩れている。 崩れたものは直らない。 止めることは出来るかもしれないけど。 けれど崩壊したまま生は続行されることをお忘れなく。 心配が傲慢なのは心配は弱っている被心配者を余裕を持っている加心配者が「ああ、可哀想だな、大丈夫かな」などと慈愛と悲哀の眼差しで被心配者を見ることなのだが、この感情には絶対に優越感という感情がはさまれているのには否定できないだろう。 心配する、されるという関係には弱者と強者という関係が存在せざるを得ない。 よって強者が悦を感じることは必然なのである。 従って、よくある逆ギレの台詞「自分は心配して『あげている』のに、なんでそんなことをいうんだ」にあるように、やはり心配することは傲慢なのである。 まあ、別に心配することは悪いわけではない。 慈愛の精神は悪くない。 ただそこには必ず強者の優越が入り込んでいることを理解してほしい。
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