第五回~辛~

2/2
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ
「荒瀬! なにやってんだ!!」  稽古場に響いたのは演出家である山本の怒号だった。  劇団『チリオネ』秋公演まで一週間を切っていた。本来なら仕上げの段階に入る時期だが押しに押している。準主役が交通事故を起こし、急遽代役として入団一年にも満たない俺が選ばれたのだ。突然降って沸いたチャンスに心が躍った。セリフも全て頭に入っていたし、やれる自信もあった。  それが、このざまだ……。 「何度も言わせんじゃねえ! 荒瀬の演技がワンテンポずれてんだよ。てめえ呼吸合わせる気あんのか! 他のやつはその下手くそに合わせようとすんじゃねえ!!」  山本が稽古中に怒鳴り散らす事はよくあったが、これ程、顔を赤らめてまで怒りをあらわにするのは初めての事だ。俺を代役にと推してくれたのは他ならぬ山本だった。それ故の苛立ちだろう。  山本の怒りは収まる事を知らず近くにあったアルミ製の灰皿を投げてきた。灰皿は勢いよく俺の頭に当たった後、床に転がり安っぽい金属音を稽古場に残す。  灰皿を避けようとしなかったのは、山本の期待に応えられない、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。山本にもそれは伝わったのか、小さく舌打ちした後「上がりだ」と呟き稽古場を出て行った。  落ち込む俺に他の演者達が優しい言葉をかけてきたが、そのどれもが灰皿より心に痛かった。  悔しさと情けなさで家に着くまで何度ため息を吐いたか分かりもしない。  そして、家に着くと更に大きなため息が口から漏れた。理由は田舎から届いた荷物にあった。大学を辞め、劇団に入った事はまだ伝えていない。そんな後ろめたさから一年以上連絡さえ取っていなかった。いつかは話さなければいけないと思ってはいたが。  段ボールを開けると大根やら人参やら沢山の野菜と一通の手紙が入っていた。  ――前略。  隆彦、元気にしていますか? 連絡がないものだから少し心配しています。もし、疲れたと思った時はいつでも帰ってきて下さいね。故郷はそのためにあるのだから……。秋に採れた野菜送ります。くれぐれも体には気をつけて。  母より――。  短い手紙だった。お袋の優しさが痛い程心に染みてくる。  俺は野菜の中から玉ねぎを手に取って、薄皮を剥いてまるごとかじりついた。余りの辛さに吐き出しそうになったが、それでもかじりつくのだ。  この両目から溢れる涙を玉ねぎのせいにしたかったから。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!