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オスマン帝国は19世紀後半弱体化していました。
ヨーロッパで起きていた政治や経済の変化を取り入れることが出来なかったのが衰退の大きな原因です。
オスマン帝国のヨーロッパ部分の領土がバルカン半島。オスマン帝国の弱体化にあわせて、このバルカン半島でスラブ人による民族運動が活発化していきます。これを、『パン=スラブ主義』という。
スラブ人の大国であるロシアが、このパン=スラブ主義の運動を後押ししていた。オスマン帝国内のスラブ人の独立運動を支援するのですね。
これは、南下政策です。ロシアの友好国ないしは同盟国をつくることによって、南方に勢力を拡大しようということです。
そしてまたもやロシアとオスマン帝国の戦争がおこります。
1877年から78年までの『露土戦争』です。
(○゚ε゚○)ロシア
「オスマン帝国内のスラブ人を助けるんだ!!今度は邪魔なやつら(イギリスやフランス)が介入してこないようにさっさと有利な局面にした後休戦条約を結んじまおうw」
この休戦条約を『サン=ステファノ条約』という。
この条約でロシアは大ブルガリア国の独立をオスマン帝国に認めさせました。これは、ロシアの南下政策にとっては、画期的な成果でした。
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