『始まり』

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暫く歩いた後、今度は横から声を掛けられた。 声音で勒七ではないとわかるが立ち止まる気は毛頭ない。 しかし聞こえてきた言葉に悠助は思わず声のした方へ目を遣った。 「お前さんの刀…“桜姫”じゃろう」 其処には座している老翁が一人。悠助は無意識に刀に触れた。 「この刀を知っているのか」 老翁の前に屈めば、老翁は静かに口を開いた。 「その昔、この国には大層美しい姫君がおった。然し悲運じゃった」 何処が刀の話なんだという思いは、袴の裾を掴む老翁の手を見て、口の中で消えることとなった。 「姫は家来の男に恋じた。男もまた恋の奴じゃった。然し、城の者は怒り、男は切腹を強いられた。姫もまた嫁することを強いられ、婚家で男の死を知り、嘆き暮らした」 老翁は既に裾を掴んではいなかった。 「姫は身籠もっておった。勿論男との子ではない。それでも姫は産の紐を解き、その後自ら命を絶ったのじゃ」 辰の刻 先刻よりも人は増えたが、此処は妙に静かだった。 「然し二人が彼の世で結ばれることはなかった。男は怨恨により鬼となり、姫は救う為に刀となったのじゃ」 悠助は思わず逃げたくなった。 「鬼の名は羅刹、刀の名は桜姫。羅刹はその刀でしか倒せぬ」 老翁は桜姫を指差し、其限声を立てることはなかった。 悠助は苦む苦む立ち上がった。 「下らない」 先刻川に沈んだものと同じ言葉は、老翁の前にこつんと音を立てて落ちた。 老翁はそれを拾い上げ、日輪に翳して遊んだ後、悠助とは別の方へ歩み始めた。 悠助の姿は最早見えなかった。  
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