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「美しい世界を見たくないか」などと言った癖に,小春は自分との距離を広げているように思えた。
ふいっとその考えが浮かんだのは,たまたま今日の国語を復習していたからで,多分,今思い出さなければ,小春の言っていたやばい薬の話も忘れていただろう。
あの蠱惑的な笑みで見つめてさえ来なければ,小春はただの転校生で,特筆する事項もなく,自分の認識から消えている。
あんなにも目立つ容姿をしながら,ともすれば忘れ去られてしまいそうなほど薄い気配。
ただものでない事だけは確かだと思う。
「絢睦」
部屋の外から,祖父のしわがれた声が聞こえた。
そのたった一言のために,僕の中の小春という人間は霧散し,あの,真っ赤な唇だけが残った。
「絢睦」
唇はその動きだけで何か呟き,ほかの部位と同じように霧散する。
「はい」
僕は,その霧散が終わるのを待って,部屋の戸をあけた。
母屋の渡りに,着物を着た祖父が手を拱き,離れから顔をのぞかせた僕を見ていた。
「何でしょうか」
眼鏡のブリッヂを押し上げ,返事をする。
齢77を過ぎたというのに,この矍鑠とした老爺はまだ現役の一線を退いてはいなかった。
「来なさい」
一言だけ,僕に命じると,黙って視線を逸し,道場に向かう。
その摺り足は足音の一切も立てず,滑るように道場に入って行った。
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