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依知川丹蔵は、仇を追う者であった。
なれど仇の名も知らず、ただ其の悪鬼の如き人相と旧き大太刀、腰の瓢箪、返り血染めの陣羽織を縁として、只々彷徨う年月、経て三年。
己が一身の繋ぎ穂に衛者の身を捨て盗人と堕し、当代一の腕と謳われた長槍をも捨て、研鑽すべきを短刀へ代えて、早二年。
一年の前、仮宿の主より其の命と言質を獲て遂に、かの仇人の流ると噂の風吹く町に至った者である。
只今、かの丹蔵は、茶亭にて仇の噂を確と聞いた。片手に大太刀、腰に瓢箪、血の装束。噺の上としても違う事さえ難い、己が仇敵の姿に丹蔵は口の端を吊り上げ笑む。やはり彼の者はこの町に在るようだ。懐の短刀が疼き、殺しの予感に震えを覚えた。
片の手を挙げ店先の下女を呼び勘定を済ます。斯様な事をせずとも喰い逃げの道は疾うに窮めたが、盗人たる者の倣わしか、きちりと他人の懐よりの金を払い居った。
前の気の利く者と違い、愛想の無い下女に腸を火に掛けた丹蔵であったが、小石を蹴り飛ばす程に憤心を留めたのは騒ぎが仇敵を離すとの軟考か。
兎にも角にも、彼の背を一衝き。無頼たる丹蔵の向く先は唯其れのみ。衝く背を求めて視線を游がす彼の耳は、然して叫を捉えるのである。即ち、
「喰い逃げぇ!」
他人事である。
しかしながら、町という町に違わぬ名の咎を残す丹蔵としては、返り見ざるを得ぬ。
果たしてそこに在ったのは、黒い陣羽織を肩に掛けた独りの優男であった。恐らくは隣の飯処から、顔も大して見せぬまま背を向け、腰回りを騒がせながら走り去って行く男を、丹蔵は茫然と見送る、
訳もない。
黒い陣羽織──丹蔵は血が乾くと黒変する事を知って居る。
優男──であったが、その顔に何処か見覚えは無かったか。
腰回りに揺れるそれは──瓢箪ではないのか。
脇に大太刀は判別しかねど、逃せる風貌でも在らぬ。疾く去る背中を眼前に追い、勘違いも甚だしい下女の声援を背に、丹蔵は駆けた。
男が首を廻し、一拍の間、丹蔵と視線と絡ませる。微かな交差が丹蔵に確信を、男に焦りを与えた。
「我が御敵よ、逃がしはせん!」
丹蔵の咆哮が男の背を打つ。最早丹蔵の胸内には、背を一衝き、などという軟弱浅考は一片も残って居らぬ。
己が短刀で彼奴の頸を貫き、腹を裂き、頭蓋を割るのだ。
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