依知川丹蔵

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 辻々を駆け、辻々を追う。町人共の奇異の視線など丹蔵の双眼に映りはせぬ。男は始め飄々と走り居ったが、寸刻のうちに形相に苦味を足しだした。 「手ン前、俺が何したってんだ!?」  足を止めず叫ぶ男に、丹蔵は白刃を抜いて応えた。 「梁田の改め所を陥としたのは貴様であろう、忘れたとは言わさぬ!」  罪人として引き連れられた此の男はその足その手で、一ツの町ともされる改め所の住人云百人を殺して往ったのだ。衛士たる丹蔵の妻子も諸共に。柄を握る手に情念よりの力が籠る。 「ヤナダァ? 知らんわ!」  男は斯様な情念をも蹴り飛ばした。しかし丹蔵も、その程度で折れるような怨念は抱えておらぬ。 「ならばそのまま死んで逝け!」  絶死の殺意から成る怒声に気を捕られたか、男は脚を絡ませ倒れ、腰を衝く。被殺の気配に振り向けば、其処には喉元まで迫った白刃が在った。 「……く、く……」  然して、男は引き攣る笑みを浮かべ、笑声を圧し殺す。 「……何が可笑しい」  丹蔵は殺意を押し固めた声で詰問する。白刃は微塵も揺れぬ。 「おっさんよ、どうせ俺は死ぬのだ。冥土の土産と思うて、酒を一口、呑ませてくれぬものか?」  男の手が既に腰の瓢箪に懸かっているのを見た丹蔵は、酔わせた方が殺し易いと考えたか、はたまた今更情が湧いたか、顎をしゃくり応意を返した。 「……応々、こいつはありがてえ。では失敬……」  喉元を短刀が薄く裂くのにも頓着せず、男はぐいと酒をあおり、あおり、飲み干した。視線を上に残したまま、両の手を地に衝く。機を失った丹蔵はしかし刃を退く事など当然せず、一言問うた。 「……気は済んだか、下郎」  返り来たのは、哄笑だった。堪えるが如き笑いに始まり、終いには喉と耳を震わす暴声と化す。最早短刀は彼の喉に赤を幾線も描いている。 「全く、現の世とは可笑しき事の連なりよ!」 「貴様、一体──」 「人生に蹴躓いた男など、至上の見世物ではないか、なあ!」  止まらぬ可々大笑に悪寒を覚えた丹蔵は、突き動かされるが如く再び得物を振り上げ、此度こそ笑声に震える彼の喉を貫かんと振り下ろした。
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