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殺しの機が薄く拡がり、二ツの影が一人許の間を空けた。睨みを利かす殺陣役者共の片割れたる怨十郎は、悠然、腰の瓢箪に手を延ばし、一意にぐいと仰り居った。先程飲み干した様に写ったのは見紛いか、鬼のカンバセに朱が差す。
「酒とは我が身の打粉払い、呑めや呑めやで塵も裂くのよ。そうは思わぬか、なあ!」
先程までとは明異を成して酒気に揺らぐ鬼の身体は、裂帛の気合と共に消え、口上の通りに丹蔵の眼前の塵を裂き割る。揺らぎ、消え、斬る。揺らぎ、消え、薙ぐ。酒気を撒き鬼気を迫らす怨十郎の太刀筋に、短刀を絶息ながらに疾らせど、丹蔵の足運びは半歩半歩と背進して居った。
幾度目かの剣閃が描かれた後、不意に逆袈裟に逸れた太刀が瞬きの間失せる。怪鳥音を捉えた丹蔵の身体は思索を挟まず短刀を掲げた。当に其の動きと期を同じくして、跳躍からの斬撃が鷹の如く舞い降り、彼の全身に震えと痺れを伝えた。
極近にて己が刃を噛み合わす。交わる視線が殺意を純に澄ました。奪一命を願として互いに牙向く獣が二匹。
「我が牙、鬼哭の兜割りすら禦ぎ居るか! その躰捌き、一門にも収まるまい。研鑽の月日も察するに易いわ」
天に体置く鬼たる獣が賞賛の言を吐き、地に体置く凶たる獣が歯を軋ます。
身も他人程の怨十郎の兜割りは然し、丹蔵から自信を殺ぎ取るには充分な重さを伴って居った。膝を曲げて耐える彼の喉から怨嗟が漏れる。
「……オオ、貴、ツ様……」
「なれど!」
天地十字に結ばれた刃は、突如天の側より外れて滑り、独楽の如くに廻る鬼の牙が丹蔵の腹を割こうと迫る。必然、怨十郎の頸は空き、己が身を顧みねば、短刀を差し込む事も出来よう。然し丹蔵の牙はその身の前の楯と化した。
「──殺しの牙は生え揃わんようだ」
愚弄の言葉と諸共に、不可視の一閃が短刀を避け足下より放たれる。禦いだ筈の斬撃が楯たる牙を擦り抜け迫るのを丹蔵は見、身を反らすも鋭く螺旋を描く切ツ先が右腕と胸元を薄く裂くのを感じた。安布の衣が朱に染まる。
「……が、あ、ッ!」
半身の直近を赤黒の死が通り過ぎて往く。血臭と酒気が丹蔵を更に惑わした。刀身から爪先までを一筋に伸ばした怨十郎は、誘うが如くに視線を擲つ。
自らの血と痛みが、丹蔵の内なる獣を呼び覚ました。
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