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貯蔵庫のスイングドアを開きながら白いエプロンを腰に巻く。
「準備はできたか」
「準備なら30分前には出来てる。ちくしょう、ポンコツめ」兄さんは機嫌の悪いオーブンを蹴飛ばしながら答えた。
白いコックコートに身を包んだマナブは「準備完了です」と答え、親指を立てた。
僕はにこりと笑いスイッチを押し、入口の灯りが点いた事を確認した。
全面ガラス張りの扉から薄暗くなった町並みを眺めた。家路へと向かうサラリーマン、コンビニの袋を提げた女性、若い大学生程のカップル。
この店には一瞥もくれず通り過ぎて行く。
時々、好奇心からか中を見やる人もいるが、閑散とした店内を見ると、興味無さげな顔になり目を背ける。
まるで、水族館にいる金魚にでもなった気分だ。
最近の客は、レストランの味よりも、雰囲気を重視する傾向にあると思う。
その雰囲気を作るのは、まず客だ。つまり、客が客を呼び、また噂になり、さらに上客へ、ひいては味そのものの評価へと繋がる。
そう言った点では、道を挟んで正面のレストラン《パラダイス》は成功している。
《パラダイス》の前には黒塗りのタクシーが止まり、着飾った紳士淑女が扉の向こうへと消えていく。
いま流行りのフュージョン料理だ。味付けはライトでヘルシー。素材の持ち味を生かした繊細で日本的なフランス料理。
現在のフランスのエスプリを伝える若手シェフ。見掛けにも華やかな料理と内装で話題には事欠かない。
そんな、お店を兄さんは「エッフェル塔から景色を見たら、富士山がそびえていた時の気分」もしくは、「くそったれ」と評していた。
兄さんは古典的な料理が好きなのだ。
そんな、古典的な料理は昔を懐かしむ客以外、今や見向きもされないのが現実だ。
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