0人が本棚に入れています
本棚に追加
「なぁ、頼むよ」
僕は床に叩き付けられた鍋の心配をしながら言った。
「子羊をレアだって?馬鹿にしてるのか?子羊はロゼと決まってるんだ。世界中探してもレアで出しているレストランなんか無い!」
「あぁ分かってる、分かってるよ。だが、頼むよ。お客さんが食べたいって言ってるんだから焼き直してくれよ」
「客の言うことばかり聞いていると、子羊をカルパッチョでくれと言い出すぞ。ロゼだ。ロゼが最高なんだ」
僕はキッチンのスイングドアを蹴飛ばした。「じゃあ、自分で言ってこいよ!ただでさえ客が少ないってのに我が儘を言うな!お客さんの為に作るんだ!」
客は不安そうな視線をこちらに向けて、何やらコソコソ話していた。
僕は客に微笑みかけてOKサインを指で作った。
「頼むよ。焼き直してくれ。いいな。お客さんには時間が掛かると伝えてあるから」
最後は渋々ながら焼き始めた。
このやり取りを奥の特等席で聞いていたマナブを見ると、何とも言えない複雑な表情をしていた。
分かってるから止めてくれ。マナブにまでそんな顔をされたら堪らないよ。
僕は、フッと息を吐き気持ちを落ち着けた。
そして、すっかり酔いの醒めた二人に「大丈夫です。すぐにお持ちします」と伝えた。
「早く羊を捕まえてきてね」と女性は言い大口を開けて笑った。
僕は愛想笑いを浮かべ、パンを皿に追加した。
その時、鍋が物凄い音をたててぶつかる音がした。三人はビクッと体を震わせて顔を見合わせた。
その時、組織に売られた宙吊りのスパイと、客に睨まれる僕はどっちがマシだろうかと考えていた。
最初のコメントを投稿しよう!