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母の姉だった人のお宅での生活は、子供心にも余り良いものではありませんでした。
他人宅に身を寄せる肩の狭さや、様々な想いに、ただ、ただ、自宅へ帰りたい。ばかりだったようでした。
当時、私達家族は公団団地に住んでいて、一棟五家族が住んでいましたが、他人でありながら、家族並み…以上のお付き合いもあり、そんな団地に帰りたくて、時間を見ては面会に来た父に、
「ご飯も作る、料理も覚える。掃除もお洗濯も自分でやるから、団地に帰らせて!」
と、泣きついた私。
その時は本気でそう思っていたようですが、実践したかどうかは記憶にありません。
徒歩通学で行く学校が遠く感じ、弟の容態を心配しながらも、反面、両親を独り占めしている弟を恨めしく思ったり…
私も我儘な子供でしたから。
病院では大学病院から偉い先生が来て、弟の治療について話していたとか。
深刻なのは、髄液の流出が収まらない。
このまま流出し続けては、脳を浮かせなくなり、浮力を失った脳が圧迫され・・・
最終手段は外科手術…陥没した頭蓋骨を開き、元に戻し、亀裂と穴を塞ぐ。
でも、それは飽くまで最終手段であり、出来れば本人の自己再生力を期待したいが。
で、しばらく様子を見て、流出が止まらなければ手術に踏み切る、と決まったらしい。
意識が戻り、個室に移った弟に久しぶりに面会に行った姉と私。
ベッドの上で、ぐったりしている弟の耳元には、ピンク色に染まったガーゼが貼られていた。
余り話せない弟を見て、怪我の大きさを知った・・・
可哀想・・・でも、お前のせいで私は他人に預けられて。
我儘な子供の勝手な怒りだったかもしれない。
可哀想と感じながら、弟に、父から叱られた事に対する恨みも持っていた私だった。
でも、やっぱり、弟が助かって早く一緒に暮らしたい。
他人宅で暮らすにも、かかるストレスが大きくなっていたようだ。初めて長く両親と離れた事で、私のストレスは増大し、いじけた気持ちが表面化して来た。
その頃、両親は相談し、父が帰宅し、姉と私は団地に戻れる事になった。
「お前のストレスも溜まり放題だし、お姉ちゃんも可哀想だし、兼の容態も少し落ち着いたから、母ちゃんと相談して、儂が帰る事にしたんよ。」
決して対応や扱いが最悪だった訳では無いが、やはり他人様のお宅は、窮屈であった。
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