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「二人はラピュタを守ったんだ」
ラスト近く、空へ上っていくラピュタを眺めながら海賊のひとりがいう台詞である。
しかし、それは違う。
シータとパズーは、ムスカの野望を阻止するためにラピュタを壊そうとしたのだ。もしもあの大樹が根を張っていなければ、崩れた要塞とともにあの美しい庭園もそこにいるロボットも小さな生き物たちも、すべて失われていた。
本当にラピュタを守ったのはあの大樹なのである。
ラピュタを利用し世界を征服しようとしたムスカ、それを防ぐためラピュタを壊そうとしたシータとパズー、そのどちらも同じく人間の業なのだ。
美しい庭園だけでなく、醜い人間の欲望や業すらもすべて抱きかかえ、包み込む。
これこそが、宮崎駿の自然観なのである。
(「自然」という言い方が正しいかどうかはわからない。宮崎は、人工のものであっても生命は命を得た時点で等しく尊いと考えていることが漫画版ナウシカの最終巻に明瞭に描かれている)
『風の谷のナウシカ』(漫画版)では、科学者の作りだした人工の粘菌を、他の粘菌が食べにやってくるシーンがある。粘菌にとって、食べることと食べられることに大差はなく、ひとりぼっちだった人工の粘菌は他の粘菌とひとつになることで安心して生き続けることができるのである。
『ナウシカ』の世界では、人々は自然を破壊し、生命すらも操り、作り変えようとしていた。
その果てしない人間のエゴと深い業の中に生まれたにも関わらず、生命はただひたすらに慈愛に満ち、ただそれだけで美しいのだ。
人間が科学を手にすべてを支配しているつもりになっていても、またそれにより滅んだとしても、自然は静かに根を張り、人間の愚かしさすら包み込む。
おそろしい兵器をもその根で包み込もうとした大樹を見た時、私はなんだか、東京湾の海底で人間の捨てた空き缶や長靴を住処にして生きている生き物たちの写真を思い出した。
人間の愚かしさすら平気に包み込んでしまうのだ、自然は。
その営みはしたたかで美しい。
ラピュタは地球の縮図である。
人間が環境を破壊し、殺し合い、その末に絶望し世界の終わりを叫んだとしても、自然はそのすべてを包み込んでしまうだろう。
たとえどんなに時間がかかろうとも、ゆっくりと静かにその根を張って。
地球はまわる
ぼくらをのせて
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