SHOOTING DOGS

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SHOOTING DOGS

私はこの作品を観た後、映画館の裏でしゃがみ込んだ。 帰り道でも、何度も顔を覆いその場にしゃがみ込みたくなった。 それまでルワンダの大虐殺を全く知らなかった私は、ひどくショックを受けていた。 けれど、私を最も打ちのめしたのは虐殺の事実ではない。 主人公たちが「虐殺の事実を知りながら何一つできなかった」ことに、私は打ちひしがれていた。 主人公ジョーは、理想に燃える若者だ。「自分にも何かできることがあるはず」と青年海外協力隊に参加し、ルワンダにやってきた。子どもたちとふれあい、人々の架け橋になれると思っていた。学校での風景は穏やかで、民族問題も価値観の違いも着実に解決していると信じていた。 しかし、悲劇は起こった。ジョーが今まで築いてきたものは、砂上の城でしかなかった。民族対立という歴史の波に、それはいとも簡単に崩れ去る。 「事実を世界に発信すべきだ」 ジョーは提案する。 学校には各国の報道関係者もいた。彼らを通じて、世界に虐殺の事実を発信すれば、国際社会が解決に乗り出してくれる。ジョーはそう信じていた。 だが、実際にはそんなことは起こらなかった。事実を知っても、国際社会はその重い腰を上げようとはしなかった。内政干渉に尻込みしたのである。 そして虐殺の事実を知りながら、「これは虐殺行為ではなく、虐殺的行為だから…」などと訳のわからない理屈で、事実を黙殺してしまった。 うちひしがれるジョーに、彼の知人でもある女性記者が言う。 「私はユーゴの内紛を取材する中で、死んでいく民衆を見てたまなくなって涙を流した。けれど、ここで転がる死体を見ても涙が出ない。なぜだと思う?」 彼女は続ける。 「ユーゴで死んだのは白人で、ここで死んでるのは黒人だからよ」 彼女はルワンダでの取材をする中で、自分の中に“越えられない壁”があることを知ったのだ。 「私はユーゴで死んだ婦人に、自分の母を重ねていた。けれど、ここではそれがない」 綺麗事なんて、理屈ではなんとでも言える。けれど、心の底には「彼ら」と「我々」を区別してしまう“何か”がある。 「人種観」は、今なお人々の心の奥深くに根を張り、人々を支配している。 それが、人が人を想うこと、そして国際社会がルワンダを救うことを妨げた一因でもあった。 欧米諸国にとって、ユーゴは我が事になり得ても、ルワンダはなり得なかった。ルワンダは、他が事としてしか捉えられなかったのである。
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