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薄暗いホテルの一室。
男は椅子に深く腰掛け、静かに目を閉じていた。
──苦痛に歪む顔。
──悲痛な叫び。
鮮明に一人の女性の顔が思い出された。
かつての妻であり、今でも想い続けている最愛の人。
男は昔、自分勝手な理由から彼女に暴力をふるい、その心に癒えることのない傷を刻みつけた。
どれだけ彼女が助けを求めようとも、それらの悲痛な叫びを一切無視して。
今でも手に残る罪の感触。
まるで男を責めるかのように何年も経った今でもまとわりついてくる。
失って気づかされた妻の愛は、男にとってかけがえのないものだった。
しかし、あれだけ傷つけたのだから、いまさらどうすることもできない。
すべては手遅れだった。
今、こうして過去を悔やんでいるのも、罪を償いたいと自分を錯覚させるただの自己満足に過ぎない。
逃げ出さなければ、もっと何かしてあげられることがあったはずだった。
しかし、自分を恨む彼女に会うのが怖くて、ずっと目を背けてきた。
考えるだけの偽善者。最低だ。
男はゆっくりと目を開くと、高層ビルの窓から広がる夜景に視線を向けた。
──だが、もはやこの問題は自分と彼女だけの問題ではない。
男と妻の間には一人の子供がいる。男の子だ。
妻に手を引かれて自分の下を去って行ったきり、会っていない。
その彼もまた、男が生みだした憎しみの鎖に囚われ、今まさにその心を閉ざそうとしていた。
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