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──教師を呼んで来る。
ただそれだけの行為が、綾乃には酷く億劫に思えてきた。
だがそれは、決して
『面倒くさくなった』
という理由からではない。
むしろ、その逆だった。
さらに聞こえる、鈍い衝撃。
さらに響く、下卑た嘲笑。
綾乃の両の拳は固く握り締められ、彼女の下唇は、血が滲む程に噛み締められた。
恐らく、あの中庭には旧部室棟の屋根を乗り越えて行くしか手段が無い。
──だとしても。
綾乃にはそれが、教師を呼びに行くよりも、良策であると思えた。
きっ、と。
綾乃は意を決して、背後を振り返った。
──その視界に、予期せぬ光景が映った。
「おい、デブ! はよ財布出せっつっとるやろいや──」
「出す必要ねえぞ、北」
綾乃が意を決し、よじ登ろうとした旧部室棟の屋根に、一人の男子生徒が佇んでいた。
……小脇に、バスケットボールを抱えて。
「……ああ!? なんやお前!」
宮下が、上擦った声で威嚇している。
「北、教室戻れ」
「カチ無視すんなや! 誰ねんてお前!」
「北!」
屋根の上の後ろ姿が、一際大きな声で、宮下の威嚇を遮る。
中庭が静寂に包まれた。
やがて、地面の砂を削る様な音と、低い呻き声が同時に聞こえた。
綾乃が立つ位置から、中庭の様子は見えない。
だが、それらの物音から、いじめの対象となっていた生徒が、地面から起き上がったらしい気配が感じられた。
その気配は、低い断続的な呻きを洩らしつつ、校舎へと続く金網の扉を開けた。
『きい』
という寂しげな金属音と、片足を引き摺る様な、地面を削る音だけが聞こえる。
「……なんねんてお前。何格好付けとれんて。ああ!?」
宮下が吠えた。
「ああ、違う違う。そいつに用事あって来ただけねんけど、北には聞かれたく無かったし帰ってもろてん」
綾乃は少し、拍子抜けした。
屋根に立つ男子生徒は、先程とは打って変わって軽い口調で宮下に応えた。
「俺、今日で部活やめるわ」
「……はあ?」
「それを今先生に言いにいこ思て来てんけど、今の一部始終、見てもうたし。基本、俺真面目やん? せやし、このまま先生んトコ行ったら俺、ついさっきの出来事、先生に報告してまうやろうし」
……男子バスケ部?
「……ケイちゃん、知っとる奴か」
宮下がまた、『その名』を呼んだ。
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