戦雲至る

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下ヒの闕宣は、動乱に紛れて、天子を僭称しており、陶謙は、その闕宣と一時期同盟関係を結んでいた。 この年の秋、曹操は、それを咎めて徐州に兵を向けてきたのである。 曹操は布告を発し、 「天子を僭称する不逞の輩に与する陶謙を誅する」 と言う。 後に陶謙は、闕宣を殺しているのであるが、そんな事は関係がないようだ。 侵略ではない。 漢王室に害を為す奸悪を除くのだ。 との大義名分を掲げたわけである。 陶謙は兵を率いて、彭城で曹操軍を迎え撃ち、大会戦となるが、用兵巧者の曹操に敵うはずもなく、大量の戦死者を出して敗北してしまう。 逃げ帰った陶謙は、守りを固めて打って出ようとしなくなった。 この時、陳登は前線に出ていない。 陶謙の命を受けて下ヒに駐屯して守備を固めていたのだ。 各地で徐州兵を破り、都市を攻略して、徐州城を指して順調に進撃していた曹操軍は、しかし、冬に入って兵糧が欠乏し始めた。 陳登は下ヒを守りつつ、曹操軍の長く伸びた兵站を執拗に攻め続けていた。 実行したのは、元闕宣配下の強盗軍団であり、城に戻らず、拠点を定めずに、各地を転々としつつ曹操軍の輜重を脅かし続けた。 意外なところで物騒な生業が役だったのある。 また、剛毅な陳登は、よく荒くれ者をして、威令に服せしめた。
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