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静さんでさえ声をかけるのを躊躇っていたその妙な沈黙は、僕のすぐ後ろにあるドアが開かれたことによって破られた。
ドアの隙間から冷たい空気が入り込む。
足から登ってきた冷気に首を撫でられて軽く身震いをしたと同時に、入ってきた人物に息を飲んだ。
彼だ。
迎えにきた。
感動と恐怖と後悔がごちゃまぜになってよく分からない感情のまま、入口に立つ男を見つめる。
黒いロングコートを着た彼は入口から動こうとしなかった。
僕に手を伸ばすことはおろか、抱き締めてもくれずただ僕と対峙していた。
「邪魔」
ふいに言われたその言葉に脳が理解を拒否した。
黙って黒いコートの彼を見つめる。優しい目元に優柔不断そうな口元、その唇が開いて、僕の名前を----
「邪魔だっつってんの、聞こえねぇ?ジロジロ見んなよ」
「……」
今度ははっきり聞こえた。
僕が見ていた『彼』の仮面がぼやけて霞み、目の前には黒のジャケットを羽織り、深い青のジーンズを掃いた青年になった。
「…言葉使い」
「ぁ、はい…すんません…」
青年の陰に彼を見ていた自分に呆れて、同時に迎えがくるのを期待していた淡い希望を自覚し言葉を失っていると、静さんが青年を窘(たしな)めた。
静さんが無表情でパソコン画面を見ながら言った一言に、青年は即座に謝る。
が、謝罪は反射だったのだろう、「そいつが突っ立ってるから悪いんじゃねぇか」と僕を睨み付け、カードをカウンターの受け皿に置くと、すれ違い様にぶつかるようにして奥へ入っていった。
甘い匂い。
「…確かに、あの子は彼じゃないな…」
自分の言葉に、胸の底が冷えた。
迎えになど、来るわけがない。
僕は彼から逃げたのだから。
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