序章

4/8
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/88ページ
 今にも泣き出しそうな表情をしていた。二十代後半ぐらいだろうか。どこか幼さの残ったような顔立ちをしている。レンズの奥の瞳が潤んでいるのがわかる。 「君には幸せになる権利があるのよ。遠慮なんてしなくていい。受け取って、お願い」  女の人は必死にそう訴えてきた。別に遠慮をしているわけではないが、女の人にはそう見えるらしい。  どうすればいいのかわからず、僕は腕を退く。藤色の紙。女の人がこんなにも必死になる理由は何なのだろう。気になる。これはいったい何なのだろうか? 「そうね……。タダでもらうのが嫌なら、一つだけ、伝言を頼んでいいかしら?」  女の人は僕の落とした本を拾って、表紙を眺めだした。死んだ両親の形見といえる古い小説だ。僕が字を読めるようになってから十年間、毎日のように読み続けた唯一の本。  女の人は表紙を軽く撫でてから僕に手渡してくる。受け取ったとき、僕の張り詰めていた緊張が一気に解れた。この女の人は悪い人じゃない。そんな気がする。 「君がこれから行く場所には、たぶん……いえ、きっと私の兄がいるはずなの。兄に言いたいことがあったのよ」  女の人は独白するようにつぶやき始めた。伝言……。やはり、この人は人さらいではない。
/88ページ

最初のコメントを投稿しよう!